長野県で15歳の少年は、父親を斧で殺害しようとして失敗し、
「殺すつもりだった」と言った。
「父親(44)の頭をおので殺害しようとしたとして、岡谷署は24日、長野県辰野町の中学3年の少年(15)を殺人未遂容疑で緊急逮捕した。父親は病院で緊急手術中で容体は不明だが、命に別条はないとみられる。少年は容疑を認めているという。
調べでは、少年は同日午前2時ごろ、自宅1階の居間で寝ていた父親の頭をおので切り付け殺害しようとした疑い。犯行直後、少年はおのを持って自宅近くの交番に出頭。署員に「父親の頭をおのでたたいた。殺すつもりだった」と話したという。一方、別の部屋で寝ていて犯行に気付いた少年の母親が110番通報をしており、現場に駆けつけた警察官が状況を確認後、少年を逮捕した。母親によると、父親は最近失業し、無職だったという。」asahi
少年の胸に去来する父親への殺意は何だろう。
父親が尊敬の対象であった時代は終わり、
父親が忌むべき存在の時代になったのだろうか。
父親も父親像も千差万別であり一概に言えないが、
殺意を抱き殺害される父親はどんな父親かは考えさせられる。
如何なる言葉もいいわけも父親殺しの前には成り立たないが、
猟奇的とも思える事件頻発では考えざろう得ないだろう。
精神心理学とか、教育論とかの難しい論議はさておき、一般的観念での父親殺しは思考範囲を超越したものであり、言い表す言葉も見つからない。マスコミの見出し的に父親殺しとしか言いようが無い。
父親殺し事件に共通する父親への失望感は、
同時に父親への尊敬の念から派生した感情である。
家庭生活がうまくいっている間は幻想は現実の中に溶け込んでいく。
そして父親は尊敬すべき対象となり続ける。
しかし、崩壊気味の家庭が父親なの現実を見せ、
幻想との違いの大きさに失望し、父親が忌むべきものに変化する。
それでもそんな感情が殺意に変わり、
殺意が行動へと進むことは殆んど無いし、あってはならない。
そのあってはならないことが頻発している。
崩壊している父権社会、その残滓の残る精神構造の父親。
生物学的な凶暴性でしか自らの存在を示す事が出来なくなった父親の社会性。
父親に尊敬の対象を人生の指針を求める子供の失望感。
父も母も子供も、閉塞感漂う家庭の中で、それぞれに苦悩の時間を送っているのが現代社会だ。
少年少女が求めるのは、尊敬できる父親であり、父親の愛だ。どんな形であれ父親を尊敬し父親の愛を感じ、父親への愛を感じたい。そんな思いが強ければ強いほど、父親への幻滅が殺意に変わり直截的な行動に変わる確率も強くなる。
簡単な原理の単純な愛の循環だ。
単純な愛の循環さえ切断された現在社会の病巣とも言えるが、
さらに単純にいうと、父親は強そうで優しければ良いと思う。
強くなくても虚勢を張っていても、
優しさと調和されると、
子供は幻滅などしない。
少年少女が望み求めるものは、
単純な愛の循環である。

