アイヒマン逃亡用旅券(朝日新聞10版国際参考)
ナチスの親衛隊中佐アドルフ・オット・アイヒマンの偽造パスポートがアルゼンチン司法当局が公開した。
ホロコーストの中心人物の一人として、
イスラエル情報機関の追跡を受けていた、
アイヒマンがアルゼンチンに潜伏しているのを、
発見されたには1960年だった。
イタリアからアルゼンチンへ向かうためのパスポートは赤十字国際委員会発行のものだった。勿論本人からの虚偽申請によるパスポートである。1950年にイタリアからアルゼンチンへ向かった元ナチスドイツの親衛隊中佐ルドルフ・アイヒマンが発見されたのは10年後の1960年だった。
アイヒマンは終戦当時はアメリカ軍に拘束されながら、うまく潜り抜け、アルゼンチンへ出発するまでの5年間国内を逃げ回った。移民団に混じってのアルゼンチンでの生活は、親ナチスのベロン政権下で比較的安穏な生活であった。それは家族を呼び寄せたのでも分かるが、ユダヤの情報機関モサドから逃れることは出来なかった。
彼の存在がモサドに知られるきっかけは、
結婚記念日の為の花束購入であった。
世紀のお尋ねもの、
捕まったら死刑は確実なアイヒマンが、
結婚記念日の花束の為に捕まったのだ。
1961年に始まった裁判では、人権()に対する罪など、
15の罪で裁かれた。
イスラエル政府は全世界への裁判の中継を許可した。
それはイスラエル政府のホロコーストへの世界の注目と、その残虐性を証明し、多くの証言者の言葉を直接証言者の声で伝える事によっての宣伝的効果を生み出すものだった。
その裁判中アイヒマンは防弾ガラスのケースの中で、
世界の注目を集め続けた。
そして裁判中アイヒマンは「命令に従っただけ」と主張した。
そんな主張に意味などなく、
彼はイスラエル史上唯一無二の死刑囚として、
1962年6月1日に刑の執行であった。
「一人の死は悲劇だが、数百人の死は統計でしかない。」
アイヒマンの最後の悪足掻きの言葉である。
アドルフ・オット・アイヒマンは、ナチスのホロコーストの中心人物として、活躍し、彼なしではホロコーストはなかったと言われるほどの中心的役割を果たした。彼が何故ユダヤ人に憎悪を抱くのは、オーストリア時代にユダヤ人と似ていると苛められたことが影響しているらしい。勿論そんな事は学者や研究者の言うことで、本人の言葉ではないだろう。
彼の名前と裁判模様が忘れられないのは、処刑方法が一寸切りだと教えらたからだった。そんな処刑方法を考え出したのは誰か知らないし、また、誰に教えられたかも定かでない噂だが、強烈なインパクトとなって記憶に残り続けている。
アイヒマン実験というのがあったらしい。
イエール大学の心理学者スタンリー・ミルグラム博士の実験である。
「アイヒマンとその他虐殺に加わった人達は、単に上の指示に従っただけなのかどうか?」の実験だと言う。
詳しいことは分からないが、ある程度までは命令に従っても、
それ以後はむしろ積極的になるのが普通のような気がする。

